「亡くなった先輩・同僚に感謝」
リクルートエージェント創業期メンバーの同窓会がまじかに迫ってきた。
生きていたら、この会に呼びたい人がたくさんいる。
毎朝、亡くなった方のご冥福をお祈りしてから仕事を始める習慣だ。
私が知らぬところで亡くなっている方もいらっしゃるだろうが、知りうる限りの名前を呼ぶ。
ナベさん、柿野さん、喜田、小林、杉山さん、山本さん、相良さん、三原さん、及川さん、
年森さん、片山さん、吉野さん、原さん、畔柳さん、やまほんさん、やまげんさん、
お世話になりました。
それぞれに思い出はあるのだが、わずか1年先輩のナベさんが亡くなった時のことは
忘れられない。
京王線 「つつじヶ丘駅:徒歩15分」 の同じ寮(二人同室)に住んでいた。
腰痛で電車通勤ができなくなり、タクシーに乗って通勤していた。
こんなに自覚症状が出ていたのに。
それでも、一切弱音を吐かず、妥協を許さない迫力で深夜まで仕事をしていた。
最後は、わずか1週間でQ(四半期)目標を達成してから入院した。
「目標達成ってそんなに大切なのか?」 と、鬼気迫るものが伝わってきた。
その後、営業途中に何度も虎の門病院に見舞いに行ったが、いつも元気に振舞っていた。
行くたびに怒られた。
ナベさん:「お前、仕事してないだろう?」
私:「いや、最近はしてますよ。」
ナベさん:「いや、お前はしてない。」
多分、 「お前が仕事をしているかどうかは、お前じゃなくて結果を見て周囲が判断することだ。」
と言いたかったのだと思う。
多分、他の社員に全社日報を持ってこさせて見ていたと思う。
入院後も会社の業績をいつも気にしていた。
病床にありながら、パスポートを持ってこい、住民票を取ってこい、
彼女と会うからホテルに運べ、英語の勉強を始めた、などと決して弱音は吐かなかった。
パスポートを探しに部屋に入ったら、机の中からお母様からのハガキが出てきた。
遠くで息子を思いやる優しいハガキだった。
心配させたくないのか、ほとんど実家にも帰省していなかったようだ。
最期は治療の手段もなくなり、新潟の実家に帰っていたそうだ。
そして、最期の最期は自分で救急車を呼んで東京の虎の門病院まで来て亡くなった。
悔しそうな顔をしていた。まだまだ生きて働きたかった。
あの顔を見て、 「目標は絶対に達成します」 と誓った。
社長以下、社員みんなで病院から泣きながら帰ってきて、
自社ビルの駐車場で上品なお父様がご挨拶された。
一生懸命話そうとされたが何も言葉にならず、泣きながら黙って深々と頭を下げられた。
それを見た我々も号泣してしまった。
あの男が生きていたら、ちょっとは違う会社になったかもしれないと思うのは逃げでしかない。
それにしても、亡くなった人の遺志をどれぐらい引き継げただろうかと思うと恥ずかしい限りだ。
ナベさん以外の人にも語りつくせない思い出がある。
そういう人がたくさんいて、今の会社や自分があること。
忘れようにも忘れられない。
「献杯!!」
「自分の番
うまれかわり死にかわり永遠の過去のいのちを受けついで
いま自分の番を生きている
それがあなたのいのちです
それがわたしのいのちです」 みつを
合掌。